ジージーとあちらこちらでセミが鳴いている。額に滲む汗を鳴狐は手の甲で拭った。ここは寺社で、鳴狐の家族が眠る墓石がある。そう、鳴狐は去年、家族を交通事故で全て喪った。はじめは信じられなかった。本当に一瞬のことだった。鳴狐はたまたま部活で学校にいた。だからこそ事故のことを知らされた時にはただ呆然と立ち尽くしていることしか出来なかった。顧問の教師に話を聞くと、居眠り運転のトラックがもろに鳴狐の家族の乗る車につっこんだらしい。鳴狐は悲しみの前に大きな怒りを感じた。自分がこんなに怒れるのだと初めて知り、鳴狐は恐ろしくなった。今の自分は何をしでかすかわからないと、その場に思わずうずくまったのを覚えている。この感情をどこにやればいいか分からない。鳴狐は虚しくなった。周りの生徒たちはそんな鳴狐の肩を抱いて励ましてくれた。
鳴狐は未だに思い出す。幼い妹の可愛らしいふっくらした小さな手を握って近くのコンビニにお菓子をよく買いに入った。妹はランダムで出る可愛らしいキャラクターのシールが入っているチョコウエハースが大好きで、鳴狐も同じものを買ってはシールをあげていた。妹はその度に「お兄ちゃん大好き」とこちらが癒やされる笑顔を向けてくれたものだ。
(なんで…)
一年経っても鳴狐は納得出来ないでいる。
(なんでみんなが死ななきゃいけなかった?)
だがこの気持ちをぶつけられるような相手は鳴狐にはいなかった。鳴狐自身もあまり人と深く関わる質ではない。部活も個人競技が主の陸上部だったので、周りの生徒ともあまり親しくなかった。こまごまとしたことは話すが本音をぶつけ合ったことは当然ない。鳴狐にはそうする以外の方法が分からなかった。幼い頃から鳴狐は無口だった。母親が発語の遅い息子を心配して、あちこち病院を駆けずり回ったと聞いたことがある。鳴狐はそれを聞いて申し訳なくなったが、無口なのは自分らしさなのだと母親に説明した。この説明も言葉数としては少なかったのだが、母親は分かってくれた。だがそんな母親ももういない。父親も静かな鳴狐を心配していたが、陸上競技に黙々と打ち込む鳴狐を誇りに思ってくれていた。
鳴狐がレースで優勝してトロフィーをもらって帰ってくると泣きながら出迎えてくれた。鳴狐の何倍も喜んでくれる人だった。
(父さんも母さんも、もういないんだ)
眼の前には参道があり、寺の裏側に墓地がある。鳴狐はおけに目一杯水を汲み、ひしゃくをおけに突っ込んだ。もう片手には仏花を持つ。
もうすぐ一周忌だ。親戚が自宅に来るのが少し憂鬱だが、みんな鳴狐を心配している。自分は今大学生だ。もう、自分一人で暮らしていける。一周忌に親戚にそう宣言しよう、と鳴狐は決意していた。
もちろん次の三周忌も当然やらねばならないだろうが、それはその時にまた考えればいい。鳴狐は墓を軽く洗い、花を活けた。手をあわせる。これだけでも家族に会えたような気がして涙が零れてくる。なんで自分だけ生き残ってしまったのか。ずっとそればかり考えてしまう。
✢✢✢
(…いいとこないな)
深夜、鳴狐はコンビニのイートインスペースにいた。そこでコンビニに置かれている求人誌や職安でもらってきた求人を見る。こんな生活をかれこれここ数日はしている。イートインスペースには他に誰もおらず、店員も暇らしい。いっそここで働かせてもらおうかと思ったくらいだ。深夜ならあまり人もいないだろうから。
「よ!お兄ちゃん、よかった。今日もいたな!」
こんな明るい声がして、鳴狐は顔を上げた。知り合いではない。では誰だろうと考えるが分からない。頭は派手な金髪で長い髪をひとつに結っている。身長も自分より低そうで、ちょっと可愛いなと思ってしまった。服装も真っ黒なジャージだ。鳴狐は警戒を少し解いた。
「誰…ですか?」
鳴狐の問に彼はトンと自分の胸を叩いた。
「俺は獅子王っていうんだ。近くのバルでウエイターをやっているんだけど、バイト探してるんだ…よな…?」
獅子王と名乗った青年の言葉が尻すぼみになる。鳴狐の表情が変わらなかったからだろう。鳴狐は基本黒いマスクを装着しているため、表情も分かりにくい。
「探してるけど、接客は無理」
それに獅子王はぱあっと顔を輝かせた。
「ならちょうどいい。洗い場の担当を探していたんだ」
「洗い場…本当?」
「あぁ。夜は強いのか?」
「うん」
鳴狐は幼い頃からあまり眠らなくても平気な体質だった。どうしても眠くなれば寝ればいいと開き直っている部分もある。
「それなら今から来てみないか?」
「急に行って大丈夫なの?」
「あぁ。見学していくといいぞ。本当ならビールも試飲してほしいくらいだけど未成年だよな?何才だ?」
「19」
獅子王に連れて行かれたバルは沢山の客で賑わっている。どうやら立ち飲みスタイルの店らしい。みなジョッキを片手につまみを食べている。
「厨房はこっちだ」
獅子王に裏側に連れて行かれる。
「えーと、名前聞いてなかったよな?」
「鳴狐」
「え?あの刀剣の名前と一緒なのか?俺と同じだな!」
「獅子王って刀剣の名前なの?」
獅子王が頷く。
「軽くて持ちやすい刀だったらしいんだ。で、話は戻るけど、鳴狐にはここで食器を軽く洗って、食洗機に入れて欲しい」
「それだけ?」
「なかなか忙しいぞ」
ふふん、と獅子王は笑った。鳴狐はそこでバイトをすることに決めた。獅子王ともっと話したかったのもある。鳴狐から言わずとも獅子王は自分の連絡先を教えてくれた。バイトをするためにはいくつか書類が要る。保証人の欄を鳴狐は見つけて、獅子王に尋ねた。
「あの、保証人は親戚でもいい?」
「ん?いいけど。親と喧嘩でもしてるのか?」
獅子王の表情を曇らせたくなくて、鳴狐は頷いた。嘘をついているという罪悪感がなかったわけではないが、獅子王の明るい笑顔をずっと見ていたかった。まるで太陽みたいだなと鳴狐は思う。
「じゃあ明日からよろしくな。何かあったら俺に連絡くれ」
そうにこやかに言われて、鳴狐はバルを後にした。久しぶりに人とこんなに長く一緒にいた。獅子王は優しい人だと鳴狐の経験上から分かる。疲れていたがなんだか胸がホクホクと温かかった。
✢✢✢
「鳴狐お疲れ、今日、夕飯一緒に食べないか?奢るぞ」
大学の講義の間にスマートフォンを見ると獅子王からこんなメッセージが届いていた。昨日の優しい獅子王の笑顔を思い出す。甘えてしまってもよいものか迷ったが、誘惑に勝てなかった。
「食べます」
「よかった。書類は準備できそうか?」
なんで獅子王はこんなに自分に良くしてくれるのだろう?と鳴狐は訝しんだが、今更かと深く考えないようにする。書類は今朝親戚に電話して頼み込んだ。返信用の封筒を入れて郵送したので、すぐに返ってくるだろう。鳴狐は数日時間が欲しいと返信した。
「夜は何が食べたい?俺は肉が好きだ!ちゃんと食えるように腹減らしとけよ?」
獅子王の朗らかな声が脳内で響いたような感覚に鳴狐はどきっとした。どくどくと心臓の鼓動を意識して、鳴狐は戸惑う。なんだろう、この気持ちは。考えたが分からない。とにかく獅子王に返信しなければ、と鳴狐は文字を打ち込んだ。
「俺も、肉好きです」
そう片言で返すとすぐ既読がつく。
「よかった!迎えに行くから昨日のコンビニにいてくれ」
「分かった」
鳴狐の一見そっけない返信も獅子王は気にならないらしい。かといって親切を押し付けてくるわけでもない。
(こんな人いるんだ…)
鳴狐はスマートフォンの時計を見て慌てた。次の講義が間もなく始まる。リュックを持って教室に移動した。
今日も獅子王に会える。それが嬉しくて講義中も何度かそわそわした。
ようやく全て終わり、大学を後にする。コンビニに行くと、獅子王がソフトクリームを食べていた。鳴狐はそれに思わず脱力してしまう。今日も獅子王はジャージ姿だった。ラフな格好が好きなのかもしれない。
「お、なひひふね」
「獅子王、お腹すいてるの?」
獅子王はサクサクしたコーンまで完食して頷いた。
「あぁ!すいてる!俺は燃費が悪くてな。さ、行こう」
獅子王に腕を掴まれて引っ張られる。それにまたドキリとした。鳴狐は改めて獅子王を観察した。
艶のある金髪。そして青年というには華奢な体つきをしている。瞳の色は鈍い鉛色だ。自分に話しかける時、きらきらとそれが輝くのである。
(可愛い…)
鳴狐は無意識にそう思い、ふるふる首を横に振った。相手は成人男性である。可愛いとは対極に位置するはずだ。
(でも…可愛い)
「ここ、安くて美味いんだ」
「…ここ」
いかにも大衆食堂という雰囲気に鳴狐は気圧された。自分一人ではとても選ばない店である。いつも鳴狐はコンビニか、チェーン店くらいしか利用しない。獅子王が気にせず引き戸を開ける。中から煙の匂いがした。鳴狐はそこで気が付いたのだが、どうやら焼肉屋らしい。
「おばちゃーん!来たぜ!!今日は連れがいる!」
「あらあら、モデルさんみたいな子ね」
モデル…?と鳴狐は一瞬考えて、自分のことを言われているのだと気が付いた。獅子王がそんな鳴狐に構わず答える。
「かっこいいだろ?俺の職場に来てくれるんだぜ!でも本当にスカウトとか来たらどうすりゃいいんだ?」
獅子王が不安そうにこちらを見上げてきた。鳴狐はそれに慌てた。
「…っ…ないから…!」
「わからないわよー。このあたりでスカウトされる子、多いもの」
店の女将らしき人が軽口を叩く。獅子王に不安そうにじっと見つめられて、鳴狐は思わず獅子王を抱き締めていた。
「大丈夫…だから…」
「鳴狐…」
鳴狐はそこでハッとした。相手は小さくても目上の大人だ。失礼なことをしたと慌てて離れた。
「ご…ごめんなさい」
「鳴狐ってすげー優しいんだな!」
「え…?」
獅子王が嬉しそうに笑う。
「俺の目に狂いはなかった!」
「ほらほら獅子王ちゃんも鳴狐ちゃんも座って。いつものでいいの?」
「あぁ!鳴狐、飲み物なにが飲みたい?」
「え…あ…コーク」
「はいよ、ちょっと待っててね」
獅子王に伝えたつもりだったが、女将にも聞こえたらしい。いつもオーダーの際、必ず一回は聞き返されるので、ある意味驚いた。
「鳴狐の通ってる大学、国立じゃないか。俺は高卒だからキャンパスライフに憧れるぜ」
「そんないいものじゃ…ないよ」
「え?サークルで皆集まって酒飲むんだろ?バーベキューしたり…」
どうやら一部の情報が偏って獅子王に伝わっているようだと鳴狐は判断した。
「え…と…それは本当に明るい人。俺みたいなのはぼっちになる」
「えー、皆で仲良くすりゃいいのにな」
「あ…恋人…とかのゴタゴタもあるし」
鳴狐はあわあわしながら難しいモラトリアム期の人間関係を獅子王に説明した。
獅子王はそんなもんかー、と目を丸くしている。
そんなことをしているうちに飲み物が運ばれてきた。大きなジョッキになみなみとコークが注がれている。鳴狐はその大きさに固まってしまった。獅子王はオレンジジュースだった。先程のソフトクリームはノーカウントらしい。
「鳴狐ちゃん、いっぱい食べていってね!」
「あ…はい」
肉が山盛り届く。まさかこれを二人で食べるのかと鳴狐は再び固まった。獅子王が専用の箸を使って野菜と肉を焼き始める。ジュワアアという音がもう美味しそうだ。鳴狐は自分が空腹であることにそこで気が付いた。家族を失ってから自分自身の感覚が薄れていたが、今は何故かそれがない。不思議だった。自分は間違いなく生きているのだ。獅子王と出会ってから自分はなんだかおかしい。いや、今までの自分がおかしかったのだと鳴狐は今更気が付いた。
「ほい、飯」
どん、と獅子王から白米がこんもり盛られた茶碗を手渡される。鳴狐はごくり、と唾を飲んだ。お腹が空いているという久しぶりの感覚に戸惑いつつも、ただ食べればいいのだと自分に言い聞かせる。マスクを衝動的に外していた。
「肉焼けた!」
獅子王がトングで焼けた肉をタレの入った小皿に取り分ける。
「いただきまーす」
「あ、いただきます…」
獅子王が肉にタレを浸けて白米を巻いて頬張った。
「んめー!」
鳴狐も肉にかぶりついてみると口の中で溶けるようになくなった。
慌てて白米をかきこむ。
「おいしい…」
「お前、やっと人間になったな」
はは、と獅子王に朗らかに笑われて、鳴狐は何だか照れ臭くなった。今までの自分は確かに生きていなかったかもしれない。
「なんか…色々楽になった」
「ああ、もっと楽になるといいな」
獅子王が大きな鉛色の瞳で鳴狐を見つめてくる。その時だ。この気持ちがなんなのかはっきり分かった。
「好き…」
「鳴狐?」
獅子王に言うなら今しかないと思った。
「俺、獅子王が、好き」
「鳴狐、俺は男だぞ?」
「知ってる…」
「そうか…」
獅子王が顔を赤くして、また肉を焼き始める。鳴狐もこの沈黙に困ってしまった。もしかしたら嫌われてしまっただろうか。獅子王がトングで肉を取り分けてくれる。
「鳴狐、それならデートしてみるか?俺と」
「…え?」
「嫌ならいいけどよ」
「する…」
獅子王の言葉が嬉しくて鳴狐は身を乗り出していた。
「おま…お前、急にそんなに喜ぶなよ」
獅子王は困惑しているようだ。だが、鳴狐は嬉しくてたまらなかった。嬉しいという感情がまだ自分に残っているというのも嬉しかった。
「ほら、鳴狐。肉食え」
「ん…」
結局、鳴狐と獅子王は全てを食べきった。獅子王がほとんど食べたが、鳴狐も普段からは考えられない量を食べたはずだ。満腹感が心地良い。
「あー、食ったな」
「ごちそうさまでした」
鳴狐が手を合わせると獅子王も倣う。
「お前は本当にいい子なんだな」
にかっと笑った獅子王によしよしと頭を撫でられる。それが鳴狐には嬉しい。今は獅子王に甘えたかった。誰かに頼りたいとか、大切にされたい、と思ったのは久しぶりだった。この一年間、自分は自分を封印していた。泣きたくなっても堪えた。泣いても現実は変わらないのだからと。
「鳴狐、どうした?」
「…あ」
気が付くと両目からボロボロ涙が溢れていた。家族を喪った時には全く流れなかった涙が今更溢れてきている。
「獅子王、俺、家族を事故で亡くしてて」
涙は止まってくれない。
「…そうだったのか」
獅子王は立ち上がって鳴狐を優しく抱きしめてくれた。鳴狐の涙がようやく止まり、獅子王はやっとホッとしたようだ。
「大丈夫か?鳴狐」
「ん…獅子王もお仕事だよね?」
「鳴狐は帰ってもいいんだぞ?」
「一緒に行きたい」
獅子王ともっと話したい、そんな意を込めた言葉に獅子王は笑ってくれた。
二人は焼肉屋を後にし、職場であるバルに向かった。鳴狐はどちらかといえば器用な方だ。仕事にすぐ慣れて周りを驚かせた。
✢✢✢
「何…着てこう…」
期末テストはあっという間に終わり、大学は長い夏休みに入った。先週一周忌を終えてホッとしている。鳴狐は自分はもう働けるからと親戚に伝えた。そんな鳴狐に親戚たちは、何か困ったことがあったらすぐに連絡をするようにと念押ししてきた。鳴狐も約束すると応えた。
バイトの方も順調だった。無口な鳴狐だが黙々と仕事をこなす姿を周りはしっかり見てくれていた。だんだん職場の人間とも距離が詰まりつつある。それは鳴狐に自信を与えてくれた。獅子王の存在も大きい。
明日はいよいよ獅子王とデートに行く。獅子王はどこに行きたがるのだろうと思っていたら、大きな公園にピクニックに行こうと言われた。弁当なら任せておけと言われたが大丈夫だろうか。鳴狐は獅子王を信じている。むしろ何が出てくるか楽しみだった。鳴狐は自分が暗い色の服しか持っていないことにここで気が付いた。その中で唯一明るかった服はグレーのポロシャツだ。下は黒のパンツ、それしか持っていなかった。獅子王は何を着てくるだろう。いつものジャージ姿でも構わない。自分は服を好きになったわけじゃない。獅子王が好きなのだ。
着ていく服も決まったことだし、と鳴狐は服を畳んでベッドに潜り込んだ。ふと家族のことを思い出していた。家族仲は良かったと思う。妹が産まれた時、鳴狐は中学生だった。思春期で難しい年頃だと世間では言われているが、鳴狐には全くそれがなかった。反抗期もなかったと思う。小さな妹が可愛くて可愛くて仕方がなかった。ゆりかごをゆらゆら優しく揺すると中で寝ている妹が嬉しそうに笑ってくれる。どんなにぐずっていても、鳴狐がゆりかごをゆすると必ず笑うので、母親に頼られていた。父親もそんな鳴狐をすごいなぁと必ず褒めてくれた。友達はいなかったが、鳴狐は家族がいれば幸せだった。
(俺はずっと幸せだったんだ…)
幸せというものに気が付くのは皮肉なことに過ぎ去ってからなのだ、と鳴狐はそこで気が付いた。当たり前なんてこの世にはないのだと。ただこうして生きているということは本当はすごいことなのだ。
(もう失わない。ずっと。絶対に大事にする…だから)
「もう、俺から…う…ばわ…ないで」
鳴狐は思わず呟いていた。視界が暗くなっていく。自分は疲れていたのだ。鳴狐は意識を飛ばした。アラームが遠くで鳴っている。鳴狐はハッと目を覚ました。スマートフォンを背中で押し潰していた。慌てたが壊れてはいないようだ。今の時刻は七時過ぎだった。久しぶりによく眠れたような気がする。
ぼーっとした頭でスマートフォンの画面を眺めていると、ピロンと獅子王からメッセージが来る。
「鳴狐、おはよう。今日はよろしくな!弁当楽しみにしとけよ!」
獅子王と本当にデートに行ける。鳴狐は幸福感で思わず笑っていた。慌てて枕元にあった黒い布マスクを装着する。人を好きになるとこんなにも世界が変わるのかと鳴狐は驚いていた。
✢✢✢
「あっちーな!」
獅子王と鳴狐は二人、木陰にいた。風がそよそよと吹いてはいるが温い。おそらく今日も猛暑日なのだろう。鳴狐はあまり汗をかかない体質だった。一方で獅子王は額に汗を滲ませている。鳴狐は獅子王の腕をつかんでいた。このままではいけない、と陸上部にいた頃の経験が鳴狐をそうさせた。
「熱中症になる…避難しよう」
ぐ、と獅子王の腕を掴んで噴水のあるエリアにやってきた。小さな子どもたちが噴水の中に入ってわいわいと遊んでいる。親と思われる大人たちがそれを嬉しそうに眺めている。ここなら少し涼しいだろう、と鳴狐は判断した。
「これ、凍らせてきた」
鳴狐はいつものリュックからスポーツドリンクのペットボトルを取り出した。
「わ、いいのか?」
「うん…暑くなるって聞いた…から」
「ありがとうな!鳴狐!」
二人で溶けてきたスポーツドリンクを飲む。
「美味いな!そうだ、弁当を食べようぜ!」
シートを地面に敷く。獅子王が保冷バッグから大きな弁当箱を二つ取り出した。蓋を開ける。
おにぎりがずらっと並んでいる。もう一つの方はおかずがぎっしり敷き詰められていた。二人分というには多すぎるだろう。
「はは。じっちゃんにも言われたけど作りすぎたな」
「ううん…食べる」
鳴狐はマスクを外して、獅子王から割り箸を受け取りプチトマトを掴んだ。お腹が空いている。朝、いつもよりしっかり食事を摂ったはずなのだが、それでも空腹を覚えていた。
「お前、細いのに意外と食えるよな?何か運動してたのか?」
鳴狐はプチトマトを咀嚼しながらこくん、と頷いた。
「陸上部だった。短距離…」
「へえ、じゃあお前、足が速いんだ」
「分かんない」
ふるふると鳴狐は首を振った。確かに何回か大会で優勝したことはある。だが、それがすごいことなのか、と言われると鳴狐は首を傾げてしまう。本当にすごい選手であれば、国を背負って戦う。鳴狐には到底無理な話だった。上を見上げたらきりがないが、それが現実である。
「俺には地区予選が精一杯。でも楽しかった」
「そうか」
確かに練習は厳しかった。だが走るのは好きだったので苦ではなかった。獅子王が優しく微笑む。
「もう走りたくなくなったのか?」
「…どうなんだろ」
「お前の好きなこと、これから沢山したらいいと思うぜ!」
鳴狐はその言葉が嬉しかった。獅子王は不思議な人だ。優しいだけとはまた違ったような感覚だ。獅子王は年齢の割に色々悟っている。鳴狐は獅子王に向かって身を乗り出した。
「獅子王のこと…教えて」
「そういやなんも話してなかったな」
「何でも聞きたい」
ふ、と笑うと、獅子王が顔を赤くする。鳴狐が見つめていると、その顔を見られたくなかったのかぷい、と顔を背けられてしまった、
「お、俺は21歳で、じっちゃんと暮らしてる」
「お父さんとお母さんは?」
「外国にいる。きょうだいはいない。でもずっとだし、俺にはじっちゃんがいるから」
「おじいさんが大好きなんだね」
「あぁ!じっちゃんはなんでも知ってるんだぜ!じっちゃんと俺はよく将棋を指すんだ」
「将棋…」
鳴狐は首を傾げた。過去に父親からルールを教わった覚えがある。
「俺も…指せるよ」
「じゃあ今度…」
鳴狐は獅子王の唇に自分の唇を重ねていた。正直に言うとずっとこうしたかったのだ。獅子王は自分から逃げなかった。鳴狐は唇を離して獅子王を見つめた。
「怖く…ない?」
「鳴狐が俺に酷いことをするって?」
「ん…」
こくり、と頷くと獅子王が笑った。
「俺はお前を信じてるよ。優しいやつだって」
「俺も…信じてる」
二人は再び唇を重ねていた。
✢✢✢
帰り際、今度家に遊びに来いよ!―そう獅子王に言われて、鳴狐は頷いたのだ。夜、鳴狐は改めて今日のことを思い返していた。獅子王としたキスの感触を思い出す。キスをするのはこれが初めてだった。こんなに温かい気持ちになるのかと鳴狐は驚いている。じくり、と下半身に熱を感じて、鳴狐は困った。こんなことは初めてだ。自慰をするのにはあまり慣れていないが、このままでは眠れない。獅子王の感触を思い出しながら鳴狐は自身を扱いた。普段はあまり気にしないが、自分はまさしく男なのだ。そして獅子王も。性的マイノリティーに関しては大学の必修科目で勉強する。自分は今まで恋というものをしたことがなかった。そのうち適当な異性と付き合って結婚するのだろう、とのんきにも思っていたのだが、どうやら違うらしい、と鳴狐は改めて自分に驚いている。
(でも獅子王が好き)
この気持ちに偽りはない。だが、恋というものは一人では出来ないのだ。
(獅子王を大事にしたい)
どうしたら大事に出来るのだろう…と鳴狐は考えたが分からない。手を止めていたら性器が萎えてきたのでもういいかと服を着た。獅子王は自分を信じてくれると言ってくれた。それが嬉しかった。
✢✢✢
鳴狐は自室でレポートを書いている。もちろんPCでだ。
「暑い…」
エアコンの調子が悪いことに気がついたのはさっきだ。フィルターを掃除したり室外機を拭いたりしてみたのだがあまり改善しなかった。鳴狐は親戚の携帯に電話を掛けた。だがこんな時に限って繫がらないのだ。
「頭が…痛い…」
鳴狐はなにか冷たいものを飲もう、と立ち上がった。そこにインターホンが鳴る。親戚の誰かだろうか。鳴狐は玄関のドアを開けた。いたのは獅子王だ。
「鳴狐!お前、顔が真っ赤だぞ?!」
「…頭痛い」
「座ってろ」
言われた通りに鳴狐はその場に座り込んだ。獅子王は誰かに電話をかけている。
「あぁ!悪いけど迎えに来てくれ!」
鳴狐は部屋のソファに寝かされている。額には熱を冷ますためのシートが貼られ、脇の下には保冷剤が置かれている。
「鳴狐、この部屋、冷房効かないのか?」
「今日…エアコン壊れた」
「そうか」
鳴狐はあまりの頭の痛みに泣きそうになっていた。獅子王が来てくれてなければ、もしかしたら自分は死んでいたかもしれない。
「とりあえず氷舐めてろ」
「ん…」
インターホンが鳴る。獅子王は走って行ってしまった。しばらくして戻ってくる。
「鳴狐、今から俺の家に来い。じっちゃんが車で迎えに来てくれたから」
獅子王が鳴狐をひょい、とおぶる。細いが力はあるのだと少し感心してしまった。
「お前、軽いな?」
「獅子王ほどじゃ…ない」
「ったく。行くからな」
獅子王がふっと笑って歩き出す。車の後部座席に座らされた。大事なものは全てリュックに入っているので持ってきてもらった。
「鳴狐くん、大丈夫か?」
おじいさんというには若く見える男性に声を掛けられて、鳴狐はなんとか頷いた。
「綺麗な子だと獅子王から聞いてたが、本当に綺麗だね」
「じっちゃん!冷房付けるからな」
獅子王が運転席に座る。じっちゃんと呼ばれた男性は笑って助手席に座った。車が走り出す。獅子王の運転は思いの外丁寧で、あまり揺れなかった。熱中症のせいか、吐き気を覚えていた鳴狐はそれにホッとしていた。獅子王の家は一軒家だった。なかなか歴史がありそうである。庭はきれいに手入れをされていた。
再び獅子王におぶられて、鳴狐は家の中に連れて行かれた。中は涼しくて快適だ。どうやら鳴狐のために冷房を付けておいてくれたらしい。
「なんか飲めるか?」
鳴狐は自信がなかったがコクリ、と頷いた。スポーツドリンクの入ったペットボトルを渡され、鳴狐はこきゅ、と飲んだ。冷たい液体が体内に入ってくる。少し良くなった気がする。
「死ぬかと…思った…」
「お前、電話くれればいいのに」
「親戚に電話したけど誰も出なくて」
「あるあるだよな、ソレ」
「そう…なの…?」
獅子王は大きく伸びをした。
「とりあえず、もうちょい休んでアイス食って寝ろ」
「獅子王は?」
「俺は仕事だ。お前は休まないとだめだぞ」
本当は嫌だったが獅子王の心配する気持ちが伝わってきて鳴狐は渋々頷いていた。
「元気になったら将棋指そうぜ」
横になってぼーっと天井を見つめている時間は永遠にも感じられるほどだった。獅子王も仕事に行ってしまった。
「鳴狐くん、アイスを買ってきたよ」
「あ…獅子王のおじいさん」
鳴狐はむくりと体を起こした。先程と比べると随分楽になった。
「うん、顔色も戻ってきたね。じじいと食うアイスじゃつまらんかもしれんが」
「いいえ、そんな…」
二人は黙々とアイスを食べた。
「獅子王と仲良くしてくれてありがとう。あの子は特別小さい子で時々、心配になる」
「俺の方が良くしてもらってる…」
「毎日鳴狐くんの話ばっかりだよ、獅子王は本当に君が好きなんだなぁ」
ははは、と老人は笑った。獅子王が自分のことを誰かに話しているという事実が鳴狐には嬉しかった。
「獅子王はなんで俺の家に?」
「あぁ、渡したいものがあるって言っていた」
「…?」
獅子王は一体自分に何を渡そうとしていたのだろう?彼が帰ってくれば分かるだろうか。
「とにかくもう休みなさい。獅子王は朝には帰ってくるから」
「…はい」
鳴狐は大人しく敷かれた布団に寝転がった。タオルケットをかけると温度がちょうどいい。うつらうつらしているうちに眠っていた。
✢✢✢
「ん…獅子王」
目を開けるとすぐ前に獅子王の顔があった。どうしたのだろう?と首を傾げたら獅子王がため息をついている。
「びっくりさせたかったのに」
「獅子王じゃ誰も驚かないよ…」
「時々お前、すごく辛辣じゃねえ?」
「そう…かな?」
鳴狐の言葉に獅子王がまたため息をついている。
「そうゆうとこ!」
「ごめんね」
「謝るな!」
とりあえず、と獅子王が何かを運んでくる。どうやら食事らしい。
「食わないと元気にならないからな」
「獅子王の作ったご飯をおじいさんはいつも食べてるの?」
「あぁ」
「いいな…」
鳴狐の言葉に獅子王がまた顔を赤くする。
「お前は本当に読めないやつだな」
「…?」
分からなかった鳴狐が首を傾げるともういいと言い捨てられた。
「美味しい。魚、嫌いなのに」
鳴狐は何事もなかったように食事が摂れた。獅子王が優しく笑う。
「お前、魚嫌いなのか?美味いのに」
「自分じゃ上手く焼けない…からかな」
「じゃあ、家の子になるか?」
「…」
獅子王の言ったことは冗談だと思ったが、獅子王の表情は真剣だった。
「獅子王がお嫁さんに来て…」
「ん?そうなるのか?」
二人はしばらく見つめ合って笑い出した。
「とにかくエアコンをどうにかしないとな。お前、普段どうやって生活してるんだ?冷蔵庫にもなにもなくて驚いたぞ」
「ん…近くのコンビニで適当に買ってる。あと弁当屋とか」
獅子王がため息を吐いた。
「分かった。俺はお前の嫁になる。そんな不安定な生活見過ごせねえ」
「本当…?」
「お前分かってるのか?死にかけたんだぞ」
獅子王の強い口調に鳴狐はうつむいた。その通りである。
「獅子王が来てくれて良かった。本当に死んでた。あの、俺に渡したいものって」
獅子王が取り出したのは小箱だった。
「お前に似合うかなって買った」
小箱を開けるとシルバーのピアスが入っていた。鳴狐は小さいがいくつかピアスを付けている。
「獅子王…ありがとう」
鳴狐は獅子王に抱き着いていた。
✢✢✢
「はい、ではこれで設置完了しましたんで!」
「ありがとうございます」
獅子王が頭を下げたので、鳴狐もそうした。
「新しいエアコン、すぐ取り付けてもらえて良かったな」
あれから獅子王と家電量販店で一番安いエアコンを買った。鳴狐は父親が遺してくれた金を崩しながら生活していたが、今はバイト代で生活費が十分賄えるので、エアコンもすんなりと手に入った。
「ん…獅子王のお陰」
そう言ってはにかむと、獅子王もふっと笑う。
「獅子王は本当に俺のお嫁さんになってくれるの?」
「あぁ。男に二言はねえ。よろしくな」
「ん、でもおじいさんは?」
鳴狐の心配はそこだった。
「じっちゃんなら大丈夫だよ。時々様子を見に行くつもりだ」
「俺も…行く」
鳴狐の言葉に獅子王は笑って頷いてくれた。
✢✢✢
「花火…」
朝、鳴狐は回覧板を見て呟いた。毎年行われている。去年は家族を喪ったばかりで、とてもそんな余裕はなかった。
「鳴狐、はい。弁当な」
「弁当…」
獅子王が鳴狐の家に住み始めてすでに3日ほどが経過している。鳴狐と共に家事をしたり、昼間は祖父の面倒を見ている。だからこうして鳴狐の昼飯を作ってくれるのだ。獅子王は夕方を睡眠に充てている。
「毎日…じゃなくていいよ…大変」
「俺がしたいからしてる」
獅子王が笑う。この人の笑顔を見ると元気になるから不思議だ。
「獅子王、明後日仕事?」
「いや、休みだけど」
鳴狐は思わず笑顔になっていた。
「花火行こう」
「花火かぁ。何年も行ってなかったな。もう八月だもんな」
「うん、楽しみ」
笑うと獅子王に頭を撫でられる。
「お前はそうやってニコニコしていたほうがいいよ。せっかく格好いいんだしさ」
「…獅子王に褒めてもらうの嬉しい」
ふふ、と笑うと獅子王がまた顔を赤くしている。鳴狐は獅子王を抱き締めていた。
「キス…する」
獅子王の返事は待たない。す、と唇を重ねた。ちゅ、と角度を変えてもう一度キスする。ぎゅむ、と抱き寄せると獅子王が鳴狐の首に腕を回して抱き着いてきた。獅子王が囁く。
「俺、お前のこと、もっと好きになると思う」
「うん…俺も」
気が付くと鳴狐は獅子王を押し倒していた。細い首筋、薄い胸。鳴狐はそれを貪りたいという情欲に駆られた。
「獅子王、好き…大好き」
「ん…知ってるよ」
獅子王の首筋にキスを落とす。
「俺、今がすごく幸せ。でも俺なんかがそうなっていいのかな」
鳴狐の中で幸せになることは、家族を忘れることなのではないかという恐怖があった。あんなに悲しくてあんなに怒ったことなのに、自分はそれすらも忘れてしまうのかと。
「馬鹿野郎、お前が幸せになるのが一番に決まってるだろ?」
「…みんなに…許してもらえる?」
「当たり前だろ」
獅子王に頭を撫でられる。鳴狐は再びキスを落とした。
「ん…っ…ふ」
くすぐったいのか獅子王が身を捩る。
「やだ?」
「大丈夫、やじゃないよ」
獅子王が笑う。この人と溶け合って、いっそ自分がなくなってもいい。鳴狐はそう本気で思っていた。
✢✢✢
ドォンと花火が勢いよく開く。
「わあ、綺麗だな!」
鳴狐と獅子王は土手に座って花火を見ている。他にも沢山の人がいた。屋台で買った物を食べる者や、酒を飲む者。談笑している者もいる。
「獅子王みたいだね。キラキラしてる…」
「はぁ?お前、なに言ってんだ?」
鳴狐はマスクを下ろして笑ってみせた。獅子王が明らかに照れたような表情をしている。
「獅子王はいつも…キラキラしてる。大好き」
また花火が打ち上がった。
おわり